先月のニュースレターで案内がありましたように、私の著書『暗号×数学』(数学セミナーライブラリー、日本評論社)が6月末に出版されました。今回、本書について改めてご紹介する機会をいただきました。しばしお付き合いいただけますと幸いです。
本書は、同出版社の『数学セミナー』誌にて2020年4月号から2021年3月号まで掲載された同名の連載記事を基に、より最近の状況を踏まえた追記を行ったものです。
本書は名前の通り、暗号と数学の関係についての本です。ここで、暗号に関する他の本でも関連する数学について述べてあることが多いですが、そうした本ではまず「取り扱いたい暗号分野のテーマ」が先にあり、そのテーマに関連する数学を説明する、という流れが一般的でしょう。同様に、数学書で暗号への応用を述べる際にも、まず「取り扱いたい数学のテーマ」が先にあり、そのテーマに関連する暗号技術を紹介する、という流れになります。そうした本で扱われる題材は、取り扱うテーマの重要性を重視するために、どうしても有名な題材に偏りがちです。一方、本書はそれらとは異なり「暗号と数学の関係」自体を幅広く紹介することに特化しているため、暗号分野の中ではニッチなテーマであっても構わず投入しています。このような独自のスタイルや紹介している題材の幅広さもあり、私としては、他に類を見ない珍しい本を世に送り出せたと自負しています。そのような本書の話題の中で私が特に気に入っているものを挙げます(本書の名前とは逆に、左側の「」内が数学の題材、右側の「」内が暗号の題材です)。他の話題については本書をご覧ください。
・「ガウス-ルジャンドル求積法」と「著作権保護技術」(第2章)
・「ベルヌーイ数」と「秘密計算」(第8章)
・「abc予想」と「カードベース暗号」(第9章)
・「単正規数」と「擬似乱数」(第10章追記)
・「コルモゴロフ複雑度」と「鍵共有プロトコル」(第12章)
本書やその基となった連載記事で上記のようなスタイルを選んだ理由についてですが、
暗号分野と数学の関係としては、RSA暗号への初等整数論(オイラーの定理など)の応用が恐らく最も有名で、次に有名なのが楕円曲線上の点のなす群を用いた楕円曲線暗号だと思います。このように暗号分野への数学の貢献が知れ渡ったこと自体は良いことだと思うのですが、一方で私の中には長らく、「数学の暗号への応用といえば、初等整数論と楕円曲線」といった具合にイメージが固定化されることへの懸念がありました。実際には、暗号の研究には初等整数論や楕円曲線に留まらず多種多様な数学が登場しているにもかかわらず、「暗号に応用される数学」のイメージが固定化されることは、ひいては数学を「役に立つ数学」と「役に立たない数学」へと安易に二分する傾向を助長することにも繋がりかねません。そうしたイメージの固定化に一石を投じるべく(また単純に、暗号と数学との面白い関係性を知っていただきたいという思いからも)、本書にはできるだけ多彩な数学の題材と暗号との関わりを盛り込むよう努めました。
また、私自身は学生時代は(暗号のことを意識せずに)数学を専攻し、就職してから暗号の研究を始めたのですが、暗号の研究を行う中で、単に理論としての「数学」が役立つだけでなく、数学を専攻することで養われた「数学者としての能力」自体も役立つことを何度も実感しました。例えば、暗号技術の安全性を数学的に厳密に検証するためには、そもそも暗号技術が「安全であるという状態」を数学的に定義する必要があります。ここで、そうして得られた安全性の「定義」を(直感を排して、あくまで論理的に)読み解くと、実は元々の「安全であるという状態」について直感的に期待される性質がこの「定義」からは導かれない、という事態が生じることがあります。このような事態に気付くためには、ある「定義」から論理的に何が導かれるか(また、何が導かれないか)を把握する必要があり、それはまさに数学者が日々行っている営みです。本書では、数学の理論と暗号との関わりだけでなく、そうした「数学者の能力」が暗号の研究に役立つ事例についても紹介しています。
という具合に、本書では、数学の理論や数学者の能力が暗号の研究に活かされている事例をできるだけ幅広く紹介することを心がけました。冒頭にも書きましたように、本書は他に類を見ない珍しい本になっていると自負しています。また、暗号についての予備知識がなくても本書を読んでいただけると思います(必要な予備知識については本書の中で説明しています)。多くの方々に本書をお手に取っていただけましたら著者として嬉しく思います。お付き合いいただきありがとうございました。